私は一度死んだことがある

夫の不倫をきっかけに、いろいろな事をいろいろな角度から考える

自分の死を、現実的に感じること

うつ病になるまで、
自分の死を、
現実的に考えたことが無かった。

もちろん、
有名人や身近な人がこの世を去った時、
私にも有り得る話だと、
少し考えることはあった。

でもそれは、
私にも有り得るけど今じゃない、
という楽観的なものだった。

心身共に元気イッパイだったから、
事故に遭ったとしても、
大病をしたとしても、
強い体と心で何とかなりそうだと
漠然とした自信を持っていた。

だけどうつ病は、
そんな自信くらいで何とかならない、
恐ろしいヤマイだった。

今まで想像すらできなかったような、
死のすぐそこギリギリの所まで、
私は連れていかれた。

私はそんな所に行かないよ!
という抗う気持ちが起きないまま、
ぼんやりとしているうちにそこに来ていた。

私は生きているのか?
死んでいるのか?
という判断が難しい瀬戸際の所だ。

私が少しだけ手を伸ばすと、
「あなたはこれにて死者となりました」と
判定されてしまうかもしれない、
というとても微妙な場所だ。

うつ病である今の私は、
意思の角度をほんの少しずらすだけで、
自分が生物としての死を迎えることができる、
ということが解った。

かつて私が持っていた健康な心身は、
うつ病に侵されて、
とても弱々しくて息絶え絶えだった。

食欲も無いから、
身体も弱っていく一方だった。

「生きること」に対して
執着心が持てなくなった私は、
このまま死んでしまっても何ら不思議ではない、
という所まで至っていた。

「生きること」に疲れてしまったから、
このまま横たえていると、
次第に体の機能が衰えるように思えた。

新鮮な空気を吸い込む力も、
二酸化炭素を吐き出す力も無いと思った。

心臓のポンプが弱くなり、
脈が不安定になるのだと思った。

筋肉は動かなくなり、
体はそのまま硬直するのだと思った。

それでいいよ、
しょうがない。

生きる力が枯れてしまったから。

生きようとする気力が
無くなってしまったから。

生きるために、
こんなにヤル気が必要だったとは知らなかった。

生きるということは、
こんなに自分を奮い立たせないといけないとは、
全然知らなかった。

生きるぞ!
パワーを出すぞ!
と頑張らないといけないとは、
思いもよらなかった。

うつ病希死念慮に憑りつかれた私は、
このまま消えてなくなるのが、
私にとって最善の道だと思った。

自死するための行動を起こすのは無理だった。
その時の私には、
そんな能動的行為をする力は無かった。

自らの意思で動くことができないから、
死のすぐそこに居るという現実に、
流れに身を任せるしかなかった。

だから、
行き倒れになった旅人のように、
道端の土や草と同化して、
そのまま息絶えるのだと思った。

生きることは当たり前のことじゃない。
こうなると、
身に染みて感じる。

あと思うのは、
何度も私の夫に「死にたい」
と言っていた不倫相手女は、
本気の死ぬ気は無かったんだろうなあということだ。

私が何度も危うく触れそうになった
「死のふち」は、
見たこともないんだろうなあということだ。

「死」は、
そんなに気軽なものじゃない。

「死」を、
そんなに簡単に扱うような人は、
本当の「死」と向き合ったことがない、
ただの世間知らずだ。

それを脅迫の手段に利用した不倫相手女は、
「死」を冒涜した、
とても失礼で下品な人だ。